小久保向一朗くんに命を救われた話

 この夏、私はあまりに唐突に、そしてガッツリ小久保向一朗というアイドルに命を救われた。それがあんまりに大事で大切で生々しくて愛おしい記憶なので、ここに記録して、心からありがとうを伝えたいと思う。(私は文章を書くのがめちゃくちゃ下手くそなので、以下読む際それだけ留意してほしい)

 7〜8月、現場の季節。ついでに旅行の季節でもあるし、自担の誕生日もあるので、臭くて汚いバイトの合間に現場関連の予定やフォロワーと遊ぶ予定を詰め込み、夜なべしてせっせとケーキを作った。海にだって行ったし、花火も見た。とにかく、今年の夏はとても忙しく、充実したものだった。旅行の後なんて、あんまり楽しかったのでこのままオタクをやめられるんじゃないかとすら思った。

 しかも、なんとこの詰め込み期間にぴったりハイの期間が合致して、かなり元気に、そして破滅的に、忙しすぎる夏をエンジョイすることができた。すごい、すごすぎる。こんなに上手くいった夏はなかったと思う。ずっとオタクとして生きてきたけれど、今年の夏が一番充実していた気がする。

 しかし、躁には鬱がつきもの。めちゃくちゃ楽しくてぎゅうぎゅう詰めでハイで後先考えずに体を酷使した愛しい愛しい夏が終わりに近づくにつれ、例に漏れず私の体調は目に見えて悪化。わっしょい終わりあたりから具合が悪くなり、なんとなく一般をとったミラボ公演の予定を残して私は完全に鬱フェーズに入った。しかも、この今回の鬱フェーズ、本当にやばくて、これまで幾度となく繰り返してきた体調のアップダウンの落差とは比べ物にならない、快方に向かっていたここ数年間がまるで白紙に戻ったようなレベルの深い憂鬱だった。

 随分久しぶりのとてつもないしんどさに、対処法ももう忘れてしまった私はなすすべもなく、ただどうしようもなくて、頭も顔も洗えずに寝たきりをしていた。この時の私は完全に死ぬ気で、その後の一週間弱くらいをギリギリ生きていたのはミラボを譲る予定だったミラボ担のフォロワーに絶対にチケットを渡さなければいけないという一心のみによるものだったのだけれど、それは同時に、それが終わったら死んでもいいのだという心を加速させていた。

 そうして入る予定のミラボ公演までの数日間、私にとってとてつもなく過去一で長く感じたたったの数日の間、私は働かない頭で支離滅裂な遺書を書くなどしていた。これ、面白いのが内容で、自分の死の経緯とかそういうことではなく、このチケットはここに、この名義のログイン情報はこれ、同行者はこれ、このメアドに送ってほしいみたいなことを大量に書いていた。オタクの遺書すぎる。

 そしてようやく当日、なんとか起き上がって現場に向かう私はやっと死ねるのだという解放感でめちゃくちゃ元気で、正直キモかったと思う。全然手段とか決めてなかったけど、絶対死のうと思ってたし死ねる確信があった。とりあえず高すぎるソールで疲れたので家帰って荷物置いて死のうーと思っていた。この謎の死ぬかー、しぬぞーという気持ち、心当たりのある人はめちゃくちゃわかってくれると思う。しかも躁じゃないので死ねる自信じゃなくて確信。死に方を考える頭も動かないのでとりあえず何かしら近くにある手段で死のうとするあの感じ。ぼんやり死ぬ準備をしている感じ。あれそのものだった。だからかなり久しぶりに本気で色々と苦しむ間も頭もないまま死ねる気がして、ここ数年で1番楽な気持ちだった気がする。そんな中で見たのが小久保だった。

 いや、そもそも一応小久保が目当てでミラボにきたわけだったけれど、それはただ単に顔と雰囲気がなんとなくミラボの中なら〜というレベルで好きだっただけで、島のプロフ以上のことは知らなかったし、それ以上にわっしょいでメロメロになった子と子供達全体を見ることのほうがメインの目的だったと思う。実際公演を見ていて、わっしょいでメロメロになった子は大田蒼空だったことが判明したし、正直小久保以外の興味がある子も結構見た。かなるとか、まあ色々。あとはずっとフォロワーの担当にフォロワーの存在をアピールすることとお見送りでフォロワーのサポートをすることに必死になっていたので、大して小久保に集中していなかったと思う。

 それでも一応、1公演通して小久保が目当てではあったので、当然小久保の表情を追うことになる。そんな中でふと気がついたのが、小久保がずっと同じペースで舞台の上に立っているということだった。幼い子供あるあるの急に元気になったり急に死んだりする、みたいなこともなく、ずっと同じペースだった(ように見えた)。急にシャカリキになることもない代わりに、一定のクオリティをずっと担保している。公演中はこの子はそういうタイプの子なのだと妙に納得して、ただ小久保が仕事をする様を見ていた。今考えると、外野の私にとって小久保はがっついてるイメージだったので、結構意外だったのだと思う。そんな感じで小久保をながめている間ずっとうっすら頭に浮かんでいたのが、この子供はきょう1ハッピーなのか?という疑問だった。「きょう1ハッピー」そうではなかった。まずハッピーかどうかは他人にはわからない(これ大事!本当に!)から小久保的にはハッピーだったかもしれないし、他の人から見たら超ハッピーに見えていたかもしれないのだが、私がしたいのはそういう話ではない。私がしたいのは「ハッピー」か「ハッピーじゃないか」という話というよりも、「きょう1」性の話だ。小久保はずっと一定のペースで仕事をしているから、あんまり「きょう1」性は感じられなかった。他の子達が疲れたり楽しくなったり疲れたり疲れたり疲れたりしてる中で、(私の中では)小久保1人がきょう1もきょう最低もなく波のない姿勢で仕事をしていた。ただそれがぼうっと頭の中に引っかかっていた。

 公演終わり、お見送りで無事フォロワーのサポートをできた私は疲れと嬉しさで興奮気味にフォロワーと食事をして、帰路についた。死ぬ予定だったのでさあ死ぬかーと思っていたところで、小久保のことを考えて、小久保、いつか舞台上で「きょう1ハッピー」になってくれるのかな、と思った。小久保が笑えてるかなんてこと私は全く知らないけれど、仕事としてきちんと一定のペースを保つ小久保が、「きょう1」ハッピーになれる日もいつかあるのかと考えて、それから、おもいきりきょう1ハッピーだと叫びたかった。きょう1ハッピーかどうかなんてわからないけど、わからないから小久保と一緒に叫びたかった、ハッピーじゃなかろうが、大衆に評価される多様で自然な、波のあるハッピーをやる余裕がなかろうが、ないからハッピーだと叫びたかった。わたしたちみんないつかほんとにハッピーになれるよね?と思って、小久保が子供である事実に対して、大人になれない自分に対して、いつかわたしたち笑って大人になれるよね?と思って、乗り換え忘れて変なところに来た電車の中で泣いた。

 それから気がついたのが、この願うような「いつか」がずいぶん久しぶりだということだった。これは本当に、ずいぶん久しぶりだった。未来のことを考えたのは本当に久しぶりだった。小久保の未来を想像して、興味が湧いたのだ。これはめちゃくちゃでかい、めちゃくちゃでかいことだ。自分に対してはもう随分長い間、そしてアイドルに対してはこれまで一度たりとも、変わっていく姿を、未来を見たいと思ったことなんてなかったのだから。

 いつか幸せになれるよねという未来への祈りを繰り返し繰り返し唱えながら電車を降りて、その後スペースを開いた。スペース中はほぼ泣いていたので、あまり記憶がない。ただ、ようやく死ねそうだったのに、小久保がきょう1ハッピーになる日を見たいと思ってしまった。やっと本当にただ自然に未来を頭から消し去って死を実行に移せそうだったのに、小久保のいる未来を考えてしまった、そんなの嫌だ、死にたいのに、とずっと言っていたような気がする。

 永遠にも感じられる時間歩き通して自宅付近までついた時には疲れでハイになっていて、少し元気だったと思う。小久保のアクロバットはまるで空を飛んでいるみたいで嬉しかっただとか、命を救われただとか言っていた。それから少し忍者の話をして、疲れたらもう切ろうと言ってスペースを切った。てっきり元気になったと思っていたので小久保でも見ようとしてつべでネクタリンをつけて、それからまた号泣し出して記憶がない。気がついたら寝落ちしていて、翌日も丸一日寝ていたような気がする。そんなこんなであっという間に8月最終日に差し掛かり、すっかり鮮度の落ちた心でこれを書いている。

 でもまだすごい死にたいし、相変わらず具合は悪い、小久保に夢中なのも、きっと何かに夢中にならないと耐えられないからであって、対して好きじゃないのかもしれない、やっぱり。もしかすると、今私は全てから逃げようと必死に小久保を無理やり好きになろうとしているのかもしれない。それにネクタリンの言葉を借りると「不便がって余計なシールをペタ」っと貼って勝手に好きになって、自分勝手に自己満足で気持ち良くなってるだけだと思う。それでも、あの日私が見たカッコよくて、堂々としていて、凛としたアクロは現実だったし、小久保の存在が私をこの世に繋ぎ止めたのも確かだ。だから今はただ自分の感じたことを大切にしたい。私があの日見た小久保が私の勝手な幻覚でも、それを今は愛したいし、それに縋りたいし、それを見るチャンスをくれた小久保に感謝がしたい。ありがとう。いつかきっときょう1ハッピーになれる日が来るよね?きっと来るから、その時は大きな声できょう1ハッピーって叫ぶから、小久保のいる町まで届くといいな。それまで小久保がどこかにいてくれてるといいな、それまで私が生きてたら……いいのかどうかはわからないし想像すると気が滅入ってうっかりまた死にそうになるけど、いつかできたらいいなあと思います。バイバイ。

 

追記
 あまりに支離滅裂な文章だったゆえ9月2週目に入った今少し手を加えているけれど、やっぱり完全に鮮度の落ちた心で書き換えまくるのも気持ち悪いというか、あの時の気持ちを否定してしまう気がして嫌なので、このくらいで加筆修正するのもやめにしようと思う。

 読みにくい文章をここまで読んでくださってありがとうございます。今日も「きょう1ハッピー」を探して生きています。次も小久保のことが書けたら嬉しい。それではまた!きょう1ハッピー♡